アメリカ合衆国では、各地で共通して見られる一つの驚くべきパターンが存在している。それは、多くの人が自分の成功や幸福は、自らの努力や道徳的な美徳によってもたらされたと信じて疑わないことである。たとえば、キャリアでの夢を実現した人や、長年願ってきた幸せをつかんだ人は、多くの場合、それを「自分の献身と美徳のおかげ」だと力強く語る。そして、その一方で、困難に直面した人々はその苦難を「自然な結果」や「宇宙のバランス」の一部とみなす傾向がある。この思考の根底には、私たちの内側に深く息づく欲求—すなわち、自分自身のイメージを守り、道徳的に正しくありたいという願望—があるのだ。その結果、成功したときは自己肯定感を高めるとともに、社会の複雑な現実をあえて単純化し、他者の苦しみを「当然の結果」や「罰」として位置づけることが容易になる。こうした偏見は、私たちの心の防壁や道徳のコンパスの役割を果たし、社会の一体感や公平さの感覚を強めているのだ。
しかし、このパターンは実は世界中で似たように見られるものである。ただし、その強さやニュアンスは文化ごとに異なる。例えば、インドやシンガポールでは、人々はより内省的かつ自己批判的であり、自分の欠点や失敗を率直に認めることが多い。にもかかわらず、それでも根底に流れる信念には大きな変化はない。すなわち、「良いカルマは真の美徳に報いる」—この考え方は揺るぎないものである。そして、例を挙げると、自己の短所を受け入れつつも、「善行を積めば最終的に良い結果が待っている」と確信を持つ人々だ。こうした信念は、文化を超えた普遍的な真実—それは、カルマが原因と結果の法則に基づいて道徳的な秩序を形成しているという概念—を明らかにしているのだ。その理由は、たとえ社会に富や地位の格差があったとしても、それが「正当化」されるからである。逆に、苦境や不平等さえもカルマの報いとみなすことで、正義感や公平感を強化し、社会の安定や秩序を保っているのだ。こうした信念の持続性は、文化の垣根を越えた普遍性を持ち、私たちの所在や価値観を映す鏡として絶えず存在し続けている。
ただし、こうした信念は単なる考え方に留まらない。むしろ、意識的にも無意識的にも利用される強力な戦略なのだ。例えば、誰かが大きな成功を収めたとき—たとえば、起業で大成功を収めたり、メディアから絶賛されたりした場合—彼らはしばしば「これは私の良いカルマのおかげ」と誇らしげに語る。その背景には、自己価値や道徳的な誇りを高めたいという欲求が潜んでいる。一方、人生の苦労や不運に見舞われたときには、多くの人が「過去の悪行や間違いの結果」と解釈し、それを宇宙の正義や公平さとして補完しようとする。こうした見解は、思考だけに留まらず、社会全体の公平さや責任感にまで大きな影響を与える。具体的な例を挙げると、多くの文化圏では、貧困や不幸さえも「道徳的な失敗の罰」として合理化されることが多い。たとえそれが真実でなくとも、その思想は社会の受け入れやすさを高める役割を果たしているのだ。こうした戦略的なカルマ信仰の活用は、困難や苦しみを「正当な結果」と位置づけ、社会の調和と秩序を維持する一方で、変革や進歩を妨げる側面も併せ持っている。その結果、私たちの深層に根ざす「公正さへの渇望」を映しながら、社会の構造を微妙に支える重要な構成要素として働く。であるからこそ、カルマに関するこうした信念は単なる思想以上のものであり、社会を動かす力の一端を担っているといえるのだ。
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