アメリカにおいて、かつては人種意識を高めるための象徴だったウォーク運動が、今や伝統的な道徳そのものを覆すほどの巨大なイデオロギーへと変貌を遂げています。最初は、社会に存在する不正や偏見と闘う覚醒の呼びかけとして出発しました。たとえば、歴史の教科書における客観的真実が歪められ、制度的差別やジェンダー格差についての議論が行き詰まる現状などがそのわかりやすい例です。しかし今や、その本来の意義は薄れ、むしろ混沌や被害者意識、さらには無法さを正当化し、それを擁護する盾として役立てられています。具体的には、フロリダ州の教育において制度的人種差別やジェンダーアイデンティティの議論が全面的に禁止されるなどの政策が実施され、その結果、歴史や道徳の真実そのものが曖昧になりつつあります。こうした措置は、私たちの社会の根幹にある絶対的な道徳基準を根底から覆し、短絡的な政治利用や社会的利益に偏った物語を流布させることを狙った一連の戦略の一部です。未来を見据えると、その展望は非常に危ういと言わざるを得ません。なぜなら、これらの動きは社会の混乱を促進し、被害者意識や違法行為を“進歩の証”として高めてしまうからです。社会が法と秩序を過去の遺物とみなすようになったとき、混乱こそが新たな価値観の旗印となり、それがまるで真の解放をもたらすかのように崇め奉られてしまいます。こうした危険な潮流は、社会の安定と結束を根底から蝕み続けており、今や壊滅的な結果をもたらしかねない状態なのです。
私たちが目の当たりにしているこの社会的動乱の背後には、根深いポストモダン哲学の影響が潜んでいます。ポストモダンは、「絶対的な真実」など存在しないと断言し、すべてのナarrativeを主観的かつ相対的なものとみなします。この考え方が、実は現代の混乱を生み出す温床となっているのです。例えば、「critical race theory(CRT)」を巡る議論では、「差別を暴き、真実を明らかにすることが社会の調和を乱す」といった意見が一般的になっています。だが、その裏側では、この「真実の否定」が社会に破壊的な混沌をもたらしているのです。かつて社会から非難され封じられていた反社会的行動や犯罪さえも、新たな抗議や抵抗の象徴として賛美され、風潮として広まりつつあります。主観性を絶えず推し進めることで、社会の道徳的基盤は不安定になり、邪悪ささえも崇拝される危険な事態が進行しています。混乱や被害者意識、社会的動乱の中に、まるで「正義の証」かのように邪悪を称賛してしまう風潮は、まさに邪悪さを崇拝させる恐るべき現象です。こうした背景の中、社会の秩序は危機に瀕しており、「進歩」や「多様性」の名のもとに、法や秩序を破壊し邪悪を正当化する勢力が台頭している現状は、深刻さを増しています。もはや、社会は無法と混乱の淵に立たされていると言わざるを得ません。
道徳の原則が、権力の追求や被害者意識の強調によって投げ出されると、社会は避けられないほどの混乱と崩壊へと向かいます。特に、アイデンティティや被害者意識に固執しながら、伝統的な道徳規範を解体しようとする動きは、社会の土台を内部から蝕む危険な潮流です。たとえば、フロリダ州で成立した制度的人種差別やジェンダーに関する法律は、その典型例です。本来の法律や倫理を無視し、自分たちに都合の良いときだけそれらを支持し、反対されるときには徹底的に拒否・否定する行動。これが、一体何をもたらすのか?それは、法や秩序に対する明白なる軽視と、邪悪や暴力をひとに正当化し、称賛する環境を作り出す結果です。結果的に、邪悪な行動さえも日常的に受容され、賞賛される社会へと変貌しています。かつて、社会の安定は共有された価値観と道徳によって築かれてきました。それが今や、価値観の崩壊とともに崩れ去り、混乱と無秩序が蔓延しています。この流れは、進歩や多様性を装いながら、実は社会の基盤を破壊し、邪悪を正当化してしまう危険な歩みです。私たちは、もはや安全な社会の土台を失いつつあり、法の支配を解体し、無法状態へと向かっているのです。こうした状況は、我々にとって重大な警鐘です。邪悪や混乱を新たな道徳とみなす、その恐るべき潮流の正体と、そのもたらす壊滅的な結果に目を向けなければなりません。
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